語り部たちの家(筏千丸)

松本家を物語ることをテーマとした松本家計画がどの時点からスタートしたのかをまずは振り返りたい。私が初めて松本家を訪れたのは2020年の夏だった。その時はただドライブのついでに立ち寄っただけだった。時間も遅く玄関より先に足を進めることもなかったように思う。街灯ひとつない暗闇に家を囲む森の存在感が浮かび上がるように感じられ肌寒さを覚えた。夏はそれだけ。帰り道は対向車とすれ違うこともなく暗闇と車道にまではみ出した草木の印象だけが残った。2021年の春はもう少し深く松本家と関わった。葛尾村滞在中の宿泊場所が松本家だった。まだ冬を抜けきっていない葛尾村で暖房器具も十分にない松本家を私たちはシベリアと呼んだ。私は滞在中に松本家に親しみを込めて『シベリア』と題するちょっとした文章を書いている。それをここに掲載したい。当時私たちが松本家になにを感じていたか、わずかばかりでも共有できるのではないかと思う。


シベリア

2021年3月11日、僕はこの日を福島県内で迎えた。午後2時46分にサイレンが村中に響き、黙祷。

僕らの滞在場所は村外れの一軒家だった。村の中心から車で10分、街灯のないカーブばかりの県道を登る。僕らは毎夜夕食後にその家に向かい、毎日決まって寒さに震えた。福島の3月はまだ冬を抜けていない。夜は特に空気が冷え、氷点下まで下がる日もある。加えてその家の電源は20Aに制限され、満足に暖房を使うこともできなかった。誰かがその家を「シベリア」と呼び、以降すっかりその呼び名が定着した。言葉の不穏さに反して、僕らのシベリア流刑は毎晩愉快だった。

ある晩はハイエースバンの荷台に薪を積んでシベリアに向かった。寒空の下、倉庫からソファーを引っ張り出し家の前の庭で焚き火をした。日本酒とビールと、おつまみは車の形をした柿の種。台所から探してきたカップは形も大きさもばらばらだった。日本酒を暖めようと火のそばに瓶を立ててみた。注ぎ口は触れないほど熱くなったが酒の入った瓶の下半分は冷たいままで、湯呑みに注ぐと少しぬるくなっていた。何も入っていない火鉢に炭を移すと火はすぐに勢いを失い炭もすぐに冷えてしまった。何度やっても同じことが起こるのが妙におかしくてみんなで暗い火鉢の中をのぞきこんではさんざん笑った。空の火鉢は結局ただの火消し鉢だった。燃やし尽くして体が冷え始めると片付けも早々にみんなで家の中に飛び込んだ。玄関先で見上げた夜空は快晴で、あまりの星の多さに吸い込まれるような気分になった。北斗七星の7つの星がすべてはっきり見えた。そのままコートも脱がずに掘りごたつに滑り込み、焚き火臭い体を寄せ合った。「お米を炊こう」。深夜1時には似つかわしくない号令がかけられ、ジャンケンで負けた1人が米研ぎの任を仰せつかった。勝った僕らは米を研ぐ冷水の冷たさを想像してただ黙ってこたつの奥に手を差し込んだ。それからはこたつから出ないとならない用があるとじゃんけん大会が開催されるのが恒例になった。米が炊けるのを待つ間トランプが配られ、深夜の大富豪大会が始まった。七渡し、八切り、十捨て、Jバック、スペ3返し、2とジョーカー上がり禁止、縛り、3枚以上で階段、4枚以上で革命。2回目のゲーム以降は都落ちと順位に応じたカード交換を追加。シベリア公式ルールも定まった。順位に報酬をつけられるようにとなぜだか他地域の地域通貨が配られたが、その出来栄えをしばし楽しんだ後はみんなポケットにしまってしまったので地域通貨が場に出されることは二度となかった。炊き上がったお米はおにぎりにして具はその場にあったマジックソルトとマヨネーズと醤油でやりくりすることにした。深夜2時のマヨネーズは口の奥にからまってやけに飲み込みづらかった。僕がジャンケンに負けて食器をシンクに持って行ったと思うのだが、それからいつ寝たのか全くもって記憶にない。

ある晩はみんな酔っていた。シベリアに着くと酒とつまみとストーブを抱えてこたつに直行した。ひとしきり話してお取り寄せのチーズケーキに舌鼓を打った後はその日もやっぱり大富豪だった。1人はしょっちゅうカードを間違えて出し、手札をみんなに公開していた。1人はビールを一口飲んで「苦い」と顔をしかめていた。1人は机に突っ伏して置いてあったクリームチーズにおでこの跡をつけ、時々起き上がっては「俺の番?いま革命中?」と必ず聞いた。僕は僕でいつまでカードを出さないでいられるかということに謎のこだわりを見せ、全く混ざっていないカードで革命を連発した。そんなわけでゲームは全く進まないまま夜だけが更けていった。3時半を過ぎて、このままでは全員で永久凍土になってしまうと、なんとか起き上がりこたつから這い出した。1人がゲームを途中で抜けてすでに布団に入っていたことにその時になってようやく気がついた。こたつの外で寒さに触れると眠気が覚め、案外冷静に着替えて歯まで磨いた。それでもやっぱり寒さにくじけてこたつに戻るとみんなもまた戻ってきていて、そのことでまたひとしきり笑った。

そのほかの日は震えながら布団に入り、布団の中でも震え続け、震え疲れて眠りに落ちた。

朝起きてシベリアを出ると昨夜は何も見えなかった村の中心に続く道沿いに除染土のフレコンバックが積み上げられていることに気づく。この場所は原発からほど近く、シベリアより先は今でも帰宅困難地域なのだ。居住圏の境界。そういう意味でもシベリアはシベリアだった。


私にとってこの時の松本家が賑やかで楽しい思い出だ。でも、なにも懐かしむためだけに全文を引用したわけではない。『シベリア』は私たちが記録した最初の松本家の物語だ。私たちはどんな立場にあろうとも自分の見方で物語ることができるということに『シベリア』を読んで喜んでくれた人たちが気づかせてくれた。松本家が「シベリア」と呼ばれたり「トシヤくんのとこ」と呼ばれたり「俺の家」と呼ばれたり「帰宅困難地域の横の家」と呼ばれたりするように、松本家は実に多様な顔を持っている。例えば『シベリア』が私の目から見た松本家なのだとしたら、みんなの目には松本家はどう映ったのだろう。松本家はこれまでどんな顔を見せてきたのだろう。これからの松本家はどうなっていくのだろう。松本家には人によっていくつもの語り口があると気づいた時、この松本家計画は始まった。

さてでは私はどんな視点で松本家を眺めようか。私が物語ることのできるのはせいぜい建築としての松本家だ。建築としての松本家、「建物としての」とも、「家庭としての」とも違う、「建築としての」松本家。昔の松本家の姿も今の松本家の建物もこれからありうるかもしれない松本家のイメージもひっくるめて、松本家がどのような空間を提供するのかと考えることが、建築としての松本家だ。あけすけに言ってしまえば、松本家は建築に関わる人間が高揚するほど特徴のある建物ではない。設計者と建設に携わった職人の堅実な仕事ぶりと当時の贅沢な材料の使用を感じさせるとしても、松本家はよくある在来木造軸組造の2階建て一軒家だ。それでも、松本家は建築的に魅力的だと声を大にして言いたい。松本家を取り巻く状況が次なる建築の可能性を開いてくれるとさえ思っている。

建築設計をどれほどオープンなシステムにできるかということにこの数年思いを巡らせている。これまで設計業務は限られた専門家の手に委ねられてきた。大小の設計事務所で世の中のほぼ全ての建物が設計されている。設計の過程では細かな決定にも専門知識を要する場面が多く、また業務も多岐にわたるため、専門家が集約的に仕事をすることが安全を確保できかつ効率的な方法だった。この原稿を書いている自分の部屋の窓から見渡せる限りの屋根の下にあるのが全て誰かにデザインされた建物だと考えるだけでも、どれほどの量の仕事が設計者に課されているのかと頭がクラクラする。でも、いつまでこの方法で建築の量産を続けるのだろう。大学時代の課題に追われる忙しい日々をそのまま一生続けるような多忙な建築設計業務をいつまで誇りある仕事と思えばいいのだろう。もう市場の好不況とクライアントの要望を全面的に引き受けて建物を増殖させ続けるわけにはいかない。建物を建てるごとに環境に負荷を与えていることを無視することはできない。真新しい建築物が耳目を驚かせるすぐそばで全ての人に住宅を供給することさえ達成できていない現状に目をつむることはできない。業務の多忙さと閉鎖的な組織体制ゆえに女性がキャリアを積むことが難しい現在の建築業界をそのまま肯定することはできない。私たちにはもっとゆっくり必要な建築計画を吟味することが求められている。それには今よりずっと多くの人に建築計画に参加してもらうことが必要だ。特に建築の創造的部分、芸術的領域は非専門家が参加することで建築によって表現できる幅がずっと豊かになるだろう。

だが多くの人にとって空間について考えることは日常ではない。それぞれがバラバラの理想やこだわりを持ちそれらを実現できるようにしながら空間言語に統一を持たせ一つの建築物として統合させるにはどうすればよいだろうか。「記録する、物語る」という松本家計画のテーマがこれにひとつのヒントを与えてくれるように思う。「記録する、物語る」とは松本家に関わる人がそれぞれの視点で松本家を見つめ、それがどんな関わり方であろうとも自分なりの方法で松本家を語ることだ。文章でも写真や絵画でもおしゃべりでも表現手段はなんでもいい。肯定的でも否定的でも構わない。ただ松本家を話題に出すことだけは続けよう。それによって自分たちにとってあるいは松本家を見聞きした他の人にとって松本家がなにを意味するのか後々わかってくるだろうというのが記録し、物語る姿勢だ。これを自分たちは語り部的なメンタリティーとも呼んでいる。語り部的メンタリティーは建築設計の門戸を開く上でも有効なのではないだろうか。語り部は時間をかけて自分の中で消化しながら語りを繰り返す。それによって自分なりの語り口で対象の全体像を捉えようとする。建築に置き換えるなら、それぞれの参加者がどんな空間が望ましいのか時間をかけて反芻しながらアウトプットを続け、それにより建築計画の参加者で建築イメージを共有するということになろう。語り部になる過程は建築計画の参加者が設計者になる過程でもある。

松本家計画はひとまずは三部作を目指している。ファーストステップは今回の展示会と本冊子のテーマでもある「現在地」。次のステップとしては松本家の「これまで」の歴史を振り返るプロジェクトを構想している。松本家が今の土地に移住してきてから私たちが関わるようになるまでの歴史の物語だ。三部作の最後を締めるのは松本家の「これから」だ。「現在地」と「これまで」を通して松本家の今までを物語ってきた私たちは今後松本家とどのように関わっていこうとするのか、松本家はこの先どんな使われ方をするのかあるいは使われなくなっていくのか。松本家の「これから」の決定プロセスを見せる企画になる予定だ。松本家の建築イメージを全員の物語として共有することも「これから」に向けて進められる。三部作の最後に、建築としての松本家がどんな姿をとってどのように使われていくのかが見えてくるだろう。今はまだ私たちは松本家を物語はじめたばかりだ。松本家の語り部としてはまだまだお粗末だ。でも今年と来年をかけて松本家の現在地とこれまでを掘っていけば松本家を詳しく物語ることもできるようになるだろう。松本家のこれから取るべき姿もおのずから見えてくるかもしれない。そこまで行かなくてもそれぞれの中に自分が松本家と今後どのように関わっていくのかイメージが明確になっていくことは間違いない。その時点で私たちは松本家の物語を自分の内に作り上げたことになる。私たちは語り部になれる。ついにみんなで松本家改修計画の設計者になれる。誰かが家の前で農作物を栽培したいというかもしれない。誰かが松本家で店を開きたいというかもしれない。松本家を仕事場にしたいという人も松本家を借りて住みたいと言う人も出てくるかもしれない。たまに来られるように寝具と着替えだけ置かせてほしいと言う人もいるかもしれない。どんなイメージでも構わない。みんなが物語る中で築き上げた松本家の使い方のイメージ、空間のイメージをひとつの建物に統合するのが私の役割だ。設計の意思決定プロセスは常に公開されながら進められることになるだろう。模型をたくさん用意したら空間のイメージを共有しやすいだろうか。長期休暇に松本家に滞在しながら全員で議論を進めたらいいだろうか。具体的なプランはまだなにも決まっていない。私にとって語り部になることは松本家の語り部たち全員で設計を進め、松本家を改修する方法を見つけ出すことでもある。みんなの物語を現実の建物として実現する方法を考えたい。三部作の最後に、松本家が「語り部たちの家」になることを願って。

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